【巨艦の行方 パナソニック創業100年】(上)家電で飛躍も曲がり角…デジタル化試練 (1/2ページ)

パナソニック宇都宮工場で、海外の技術者(右)に高品質の液晶テレビ生産のノウハウを伝える社員
パナソニック宇都宮工場で、海外の技術者(右)に高品質の液晶テレビ生産のノウハウを伝える社員【拡大】

 ■家電で飛躍もデジタル化試練

 長崎港から船で1時間半。五島列島の北東部にある中通島でパナソニックの系列電器店を営む石田敬一さん(62)には、冷蔵庫や洗濯機など多い日で一日10件近くの修理や納品の依頼が舞い込んでくる。「夜でも給湯器の故障なら駆け付ける」。息子と軽トラックで走り回り、離島の人々の生活を支えている。

 創業者の松下幸之助氏が1957年に日本で初めて築き上げた系列店のネットワーク。ピーク時には2万7000店を誇った販売網は、テレビや冷蔵庫など戦後の「三種の神器」をはじめ製品の売り上げを支え、パナソニックが世界企業に飛躍する素地を整えた。

 「ぼくらも死に物狂いで販売を伸ばそうと頑張った」。パナソニックOBで電球や蛍光灯を製造する京都市の工場にいた吉田富政さん(87)は振り返る。51年に入社し、バラックの工場から全国を営業に飛び回った。「常に東芝やソニーといったライバルがいて、切磋琢磨(せっさたくま)して成長した」

 高度成長期の波にも乗った。ライバルの長所を研究した製品を安く作り、販売する手法を「マネシタ電器」とやゆされたこともあったが、それでも輝かしい思い出だ。

 曲がり角

 だが時代の変遷は試練をもたらし、系列店も量販店との競争やネットの台頭、店主の高齢化で曲がり角を迎えている。

 秋田県羽後町で系列店を営む大日向健悟さん(50)も一度、やめたいと思ったことがある。10年ほど前、量販店の攻勢が地方にも押し寄せたときだ。大雪の中でも製品を届け、修理に駆け付けたときの顧客の喜ぶ顔が目に浮かび、大日向さんは店を続けると決めたが、全国の系列店は既に1万5000店まで減っている。

韓国勢や中国勢が新たなライバル