豊田達郎氏死去 初の現地生産で日米の懸け橋に (1/2ページ)

豊田達郎氏
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 トヨタ自動車の創業家は、一族でグループを支えるという意識が強い。創業者の豊田喜一郎の次男として生まれた豊田達郎氏もこの家風の中で生きてきた。貿易摩擦にもまれる中で病に倒れ、社長在任は約3年と短かったが、日米の自動車産業の懸け橋になろうとした経営者だった。

 製造会社のトヨタ自動車工業に入った兄の豊田章一郎氏を追うように昭和28年、トヨタ自動車販売に入った。当時は珍しかった経営学修士(MBA)をニューヨーク大で取得し、国際派としての役割を担った。

 平成4年に4歳上の章一郎氏から社長を引き継ぎ、豊田英二名誉会長、章一郎会長、達郎社長という体制になった。「豊田姓だから選ばれたという意識はない」と語ったが、本音はもう少し複雑だった。「豊田家の発言や行動次第でたくさんの人が動くから…」。口数は少なく派手な振る舞いを嫌うのは兄と似ていた。

 米ゼネラル・モーターズ(GM)との共同生産をカリフォルニアで始めたとき、合弁会社の社長に就いた。米国では初めての現地生産を指揮し、軌道に乗せた功績は大きい。

 達郎氏が副社長、社長と歩んだ1990年代前半、トヨタはGMとの関係を深め、日米自動車摩擦を少しでも抑えるためGM車の輸入販売を決めた。しきりに気にかけていたのは、輸入車事業の先達である梁瀬次郎氏(元ヤナセ会長)のことだった。「梁瀬さんは自動車文化を育てた功労者だ。トヨタの事情で迷惑をかけてはいけない」と語り、梁瀬氏のもとに何度も足を運んだ。