【震災遺構のいま】教訓、1000年先まで 10日に公開、気仙沼向洋高・旧校舎 (1/3ページ)

震災遺構として一般公開される気仙沼向洋高の旧校舎。今も津波で流された車が教室内に残る=宮城県気仙沼市(川口良介撮影)
震災遺構として一般公開される気仙沼向洋高の旧校舎。今も津波で流された車が教室内に残る=宮城県気仙沼市(川口良介撮影)【拡大】

 ■津波の教訓、1000年先まで 「少しでも高い場所へ」

 東日本大震災は11日で発生から8年を迎えた。風化の影もちらつく中、震災の爪痕をいまなお残す気仙沼向洋(けせんぬまこうよう)高の旧校舎(宮城県気仙沼市)が10日、震災遺構としての整備を終え、一般公開された。どう記憶をつないでいくのか。「千年先を見据えた教訓の場にしてほしい」。住民らは訴える。(橋本昌宗)

 避難場所で犠牲に

 校舎の3階に突っ込んだ車、骨組みがむき出しになった教室の天井、壊れた校舎の壁…。気仙沼向洋高の旧校舎には、津波の威力を伝える証しが存在する。

 気仙沼湾の入り口を守るように位置する階上(はしかみ)地区に校舎はあった。津波は、がれきを巻き込みながら、最上階の海抜約12メートルの4階まで押し寄せた。「祖父から津波の恐ろしさは聞かされていた。でもここまでとは思いもしなかった」。同高OBで教諭や講師として19年間勤務した地元の自治会長、芳賀一郎さん(69)は振り返る。

 階上地区は、明治29(1896)年の三陸地震でも津波で多くの住民が犠牲となった。その記憶が語り継がれ、防災意識は高かった。学校にいた生徒は教員の誘導で校外の高台に避難。さらに内陸部まで走って逃げ、全員が無事だった。校内に残った教職員も屋上で難を逃れた。

「訓練もして、避難場所に逃げて犠牲になるなんて」