【静岡古城をゆく 北条五代の史跡】北条早雲進撃“旗揚げ”の起点 興国寺城(沼津市根古屋) (1/2ページ)

興国寺城跡の本丸を囲む土塁は、戦国期に見られない大規模なもので、中央に天守台を設けている=沼津市根古屋
興国寺城跡の本丸を囲む土塁は、戦国期に見られない大規模なもので、中央に天守台を設けている=沼津市根古屋【拡大】

  • 本丸出入り口前で発見された武田期の丸出し遺構

 長禄元(1487)年、北条早雲は今川家を横領している小鹿範満の今川氏館を急襲し討ち果たした。今川義忠の嫡子・龍王丸(たつおうまる)を家督に取り戻すことに成功する。早雲にはその恩賞として、富士郡の下方12郷が与えられたが、在城したのは駿東郡の興国寺城であった。

 まったくおかしな話で、なぜ自分の領地外に城郭を構えることが許されたのか…。先学では諸説提唱されている。1つは「一時期富士郡域であった」こと、2つ目は「ここでなく富士郡の善得寺城」という説(富士市今泉)、3つ目は「知行地とは別に葛山氏が領する駿東郡の安定化と、これから始まる早雲の伊豆侵攻をすでに看取していた」とする。

 歴史をひもとくと、この3番目の説が有力視できる。興国寺城は戦国大名となる第一歩を踏み出す転機になったことで、「早雲旗揚げの城」として名をはせ、これからの早雲史を面白くしている。

 このことは、早雲の「思惑通り進んだ」とする見解で、事実、葛山氏を今川氏に帰属させ、妻も葛山氏から迎えている。夫人を迎えたのは興国寺城であたかもしれないが、現在の城跡は江戸初期、徳川家康の家臣、天野三郎兵衛康景が1万石になったときの築城である。巨大堀と大土塁で区画された中央の石垣上に天守が乗る形で、まさに“見える化構造″が見どころとなっている。