働き方

「空気を読む」は無敵だが… 空気を吐かなければ会議は進まない (1/3ページ)

 「空気を読まない人」は煙たがられる。しかし私たちは空気を読むべきなのだろうか。ブロガーのフミコフミオ氏は、「『空気を読む』とは、周りの雰囲気に合わせてあえて意見を言わないという、いわば自発的な箝口令。それでは議論は白熱しない」という――。※本稿は、フミコフミオ『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

 空気は「読む」ものではなく「吸う」ものではなかったか

 本来、空気は読むものではなく吸うものだ。いつの間にか空気が「吸うもの」から「読むもの」へ変わってしまっていて驚いている。いつからだろう。記憶を辿ってもちょっとよくわからない。かつて、空気は「吸う」一択だった。読むものになってから、読むのが不得手な僕のような人間にとってはやりづらい時代が続いている。

 僕の記憶が間違っていなければ、子供の頃、つまり昭和50年代の終わりから昭和60年代にかけての底抜けに明るかった1980年代、「空気読んでよー」というフレーズを耳にした経験はない。まだ子供だったので空気を読まなければならないシチュエーションにならなかったのかもしれないが、空気はまだスーハーするものだったのだ。

 さもなければ、家族や友人が空気を読んで僕を空気読みさせる状況下に置かなかったのだろう。嫌味っぽい子供であった。皮肉屋でもあった。両親からは「悪口と皮肉が服を着ている」と褒められて育った。

 友達から「空気読んでよー」と求められても「え? 空気って吸うものだよね。キミは空気を読むって言うけど何か書いてあるのかい? 参考にしたいから、目の前にある空気を読んで書いてあることを教えてよ。さあ! さあ! さあ!」くらいのことはナチュラルに言っていただろう。なんてイヤなガキだろう。ボコボコに殴りたい。

 「空気を読む」は「察する」とどう違うのか

 面倒くさいガキであった僕が、友達から疎まれ避けられ、ひとり寂しく空気をスーハーしているとき、世間では空気を読むという行為が普及していた可能性はある。「あいつまだ空気を吸うものだと思っているぜ」と嘲笑されていることすら知らずにひとり寂しくアホ面で空気をスーハーしていたのかと思うと悔しい。

 「空気を読む」が僕の日常生活を侵略してから、はや20年以上が経過している。初めて「空気読んでよ」を耳にしたとき、意味がわからず戸惑ってしまった。「空気を読む? なんだそりゃ」というのが第一印象であった。その意味と用法を知ったときは「ずいぶんと使い勝手のよろしいフレーズだ」と思った。

 近い日本語は「察する」だろうか。ただし「察する」には、さりげなく雰囲気を感じ取って、相手に悟られぬようにいたしましょうというスマートなニュアンスがあるが、「空気を読む」には「積極的に雰囲気を読んでいるのを態度に示していこうぜー! バッチコーイ!」という意味が含まれているような感じがする。

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