渡邊大門の日本中世史ミステリー

織田信長は政策通だったのか、その手腕を再確認する (1/2ページ)

渡邊大門
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 コロナで世の中があまりに逼塞している。特に、経済は大不振で、目を覆わんばかりである。「ああ、織田信長のような改革者がいたらなあ!」と思う方がいるかもしれない。ところで、その信長であるが、今やその政策をめぐって大きく評価が変化した。今回は、その辺りを確認しておこう。

 数ある信長の政策で特筆すべきは、商人を活用した都市や商業政策になろう。信長は伊勢湾に面する津島(愛知県津島市)、熱田(名古屋市熱田区)を支配下に収め、海上交通を掌握した。

 津島・熱田が面する伊勢湾には木曽川が流れ込み、伊勢・志摩や知多半島との交通が至便だった。また、信長は熱田を拠点とする加藤氏を御用商人として召し抱え、種々の特権(徳政免除など)を与え、経済の発展を促進したのだ。

 信長は堺(大阪府堺市)の直轄領化も図り、今井宗久を御用商人として起用。堺は明(中国)などとの交易を行っており、鉄砲などの武器の調達も可能だった。さらに信長は堺に税を賦課し、徴税する役割を宗久に任せた。また、但馬山名氏を屈服させて生野銀山(兵庫県朝来市)を接収すると、信長はその管理を宗久に行わせている。

 つまり、信長は主要な経済都市や鉱山を掌握し、その管理を御用商人に任せることで、効率よく支配を行ったのである。そして、信長は国内の経済を活性化するため、種々の流通・経済政策に着手した。

 永禄11年(1568)、信長は分国内の関所を撤廃し、自由な行き来を認めた。これにより関銭(関所の通行料)の負担などが免除され、人々の通行だけでなく物資の運搬も自由になった。商人らにとって通行料免除は大きなメリットなので、流通を促す重要な政策だったと評価されている。同時に、信長は分国内の道路の整備も命じており、関所撤廃と合わせて通交の利便性をもたらしたのだ。

 もっとも注目すべきは、楽市楽座令であろう。楽座は特定の市場に限り、座(商工業者などの同業組合)の特権を認めず、自由に商売することを保証した政策だ。それは広く市場を開放し、商業の振興を促進する性格のもので、必ずしも座を廃止したものではない。

 楽市は町や市場の振興策であり、そのメリットは信長が支配する分国中を自由に行き来できること、借銭・借米の返済義務がないこと、地子(地代)や諸役の免除などである。同時に、狼藉・口論を禁止するなども取り決めている。こうして信長は市場への居住者を増やし、活性化を促そうとしたとしたのだ。

 このようなインフラ整備と規制撤廃は、流通経済を大いに促進させた。なお、これに類した政策は、すでに六角氏、今川氏、北条氏が実施しており、信長のオリジナルな政策ではないと指摘されている。つまり、信長が考えだした政策ではなく、すでに行われていた政策を徹底したということになろう。信長のオリジナルではないという点は重要だ。

 信長は、那古野(名古屋市中村区)、清須(愛知県清須市)、小牧山(愛知県小牧市)、岐阜(岐阜市)、安土(滋賀県近江八幡市)と居城を変えた。最初に本拠とした那古野城は、現在の名古屋城の二の丸付近に所在した。周囲には多くの寺社があり、武家屋敷、市場、町屋もあった。しかも主要な交通路に面しており、宿泊できる集落もあった。

 天文23年(1554)、信長は尾張守護所であった清須城を奪うと、那古野城から清須城に拠点を移し、約9年間にわたり居城とした。平城である清須城は、尾張の主要都市と陸路で結ばれ、五条川の河川交通が至便であったといわれている。

 永禄6年(1563)、信長は小牧山城に移った。小牧山城はこれまでの城とは異なり、交通という面で利便性がなかった。しかし、信長は小牧山城に惣構や武家屋敷なども整備したので、本格的な城郭だったと指摘されている。これまで小牧山城は、美濃攻略前の一時的な拠点であったといわれていたが、それは見直さなければならない。

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